このパリ旅行の中で書かれたクララの手紙や日記に「作曲をした」という文章が度々出てきますので、この曲は恐らく主にパリへの演奏旅行の最中に作曲されたようです。クララは1832年5月1日にライプツィッヒに戻ってきますが、その直後の5月10日の日記の中で「私たちがパリから戻る少し前に、私のカプリースはStoepel(パリの楽譜商)で印刷され、父は10部のスコアを受け取った。父はこれからHofmeister(ライプツィッヒの楽譜商)に印刷させると言っている。」と書いています。この曲は従って、最初パリで1832年4月に出版されたようで、その後ライプツィッヒでは8月22日に100部が出版されています。
1830年10月1日からヴィーク家に同居しているローベルトは、1831年9月以来7ケ月に渡る長い別離の後で、あの「パピヨン」と共にクララを出迎えます。一方のクララは手土産にこの「カプリス」を持ち帰り、当初はローベルトに献呈するつもりだったようです。ローベルトは日記の中で次のように書いています。
5月3日;「彼女は自作のカプリスを弾いたが、まるで騎兵の行進の様に聞こえた。」しかしこの曲はローベルトには献呈されず、同じライプツィッヒの住人のヘンリエッテ・フェルスター夫人(旧姓ヴィーク、但し父ヴィークの親類ではないようです)に献呈されました。フェルスター夫人はクララと共に1825年から(恐らくはヴィークの下で)ピアノレッスンを受けた女性だそうです。
5月4日;「彼女はまるで騎兵の様にピアノを弾いている。そのカプリースはカプリスというよりも、
むしろ即興曲あるいはヴィーク流「楽興の時」といった所だ。」
5月13日;「クララはカプリスを僕に献呈したがっている」
ナンシー・B・ライクはこの曲をあまり良く評価していませんが、しかし私はこの曲が大好きです。この曲はクララの若き日の溌剌とした雰囲気が最も色濃く発露した作品だと思っているからです。曲の中に描かれるキャラクター(人物)の性格は、破天荒なまでに明るく、元気で、悪気がなく、幸福に満ちて、しかし節度を知り、美を知り、芸術を知っているからです。聴いていてとても楽しくなる曲なのです。私自身が多少酷評した作品1に比べると、音楽の深みや幅はずっと広く、しかし変に音楽的文法にとらわれていない自由気ままな雰囲気を併せ持っています。特に第一曲冒頭の、非常に快活でエネルギッシュな上昇音型と、それに続いて右手が最高音に張り付いて連打する間にもうひとつの声部が更に上昇するという、作品3の中間部にも現れる音楽は、クララの若きエネルギーが炸裂しているように聞えます。全曲に渡ってこの第一曲冒頭主題が自由奔放に展開されて行きます。
小さな曲が9曲からなっていますが、唯一全曲を聞くことのできるJozef de BeenhouwerのCDでは全曲は切れ目無く演奏され、全てが長調なので、非常に元気快活な14分の曲のようにも聞こえます。
この曲はローベルトの曲を理解する上で重要な地位を占めます。それは、この曲が「クララ・ヴィークのテーマ」の起源とされているからです。有名なローベルトのピアノソナタ第3番作品14、その第三楽章「クララ・ヴィークの主題による変奏曲」あるいは「クララ・ヴィークのアンダンティーノ」と呼ばれる曲の冒頭の下降音型...これはそれ以外にも作品14の第一楽章を初め様々な曲に現れます。これのオリジナルがカプリス作品2の第七曲に現れるのです。Cで始まるこの下降音型は、ローベルトの作品14第三楽章と同じヘ短調で書かれています(クララの作品2第七曲は変イ長調ですが、そのテーマの部分は単調なのでヘ短調になります)。ローベルトの作品14に現れる下降音型とクララの作品2に現れる音型は完全には一致していませんが、譜例を見れば分かる様に音符の構造は酷似しています。ちなみに、作品14で使われている音型に完全に一致したクララの音型は残存するクララの如何なる楽譜にも現れないとされています。
このクララ・ヴィークのテーマの起源を作品2とする説は、「シューマン 黄昏のアリア」ミシェル・シェネデール著、千葉文夫訳の28〜29ページ目に記載されています。下記にその書籍に掲載された譜例を例示しておきます。
クララの作品2第七曲と、ローベルトの作品14第三楽章冒頭の比較
「シューマン 黄昏のアリア」ミシェル・シェネデール著、千葉文夫訳(筑摩書房)より引用