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ブラームスがシューマン夫妻と初めて会った日について



お手持ちの文献を調べてみてください。殆どの文献には1853年9月30日と書いてあると思います。私の手持ちのクララ・シューマン、ローベルト・シューマン、ヨハネス・ブラームス関連の文献でも大半が9月30日と明記してあります。私が所有していないブラームス関連の書籍を書店にてチェックしましたが、やはり9月30日と書いてあるものだけでした。しかし、ある根拠から私のホームページと、ととろおさんの「シューマンおたく学会&クララファンクラブ」では1853年10月1日としています。その論拠をここでご紹介しますので、、今後シューマンやブラームス関連の文献を執筆する方には10月1日の方を採用していただきたいと思います。
 

何故9月30日に?

それはローベルトの日記に次のように書かれているからでしょう。ローベルトとクララの日記はシューマン研究の最も基本的な資料ですから、ブラームスの事が最初に現れる9月30日にブラームスと会ったと推測することは当然の事です。

9月30日:ハンブルグのブラームス氏
10月1日:ブラームスが訪問(天才)

わたしが持っている文献の中で最も古い、リッツマンのクララの伝記には以下の様に記載されています。

Berthord Litzmann : Clara Schumann (1913)

And behold! on the same 30th of September on which she (clara) confides her discouragement to the diary, Robert remarks in his diary notes : "Herr Brahms from Hamburg".

但し、9月30日にクララが日記にとても落胆していると書いていることに注目ください。ナンシー・B・ライクの「クララ・シューマン、女の愛と芸術の生涯/高野茂訳」には比較的正確な記載があり、次のようにかかれています。
ナンシー・B・ライク/高野茂訳:クララ・シューマン、女の愛と芸術の生涯 (1985/1987)

9月30日:私の最後の良き時代が過ぎ去って行く。私の気力までが同様に.....私の落胆は、とても口では言えない。


 

何を根拠に10月1日とするのか?

この鍵は、シューマン夫妻の長女マリエが、後年書いた文章にあります。これもナンシー・B・ライクに詳しい記載があります。

ナンシー・B・ライク/高野茂訳:クララ・シューマン、女の愛と芸術の生涯 (1985/1987)

ある日、1853年のことだった。正午頃、呼び鈴が鳴った。わたしは、子供がそうするように、走っていってドアをあけた。そこでわたしは、絵のように端正な顔つきをした、長い金髪の青年をみた。彼は、父に会いたいと言った。わたしは、父母が不在であることをつげた。彼は、父がいつ戻ってくるか、ということまで尋ねた。明日11時になれば、とわたしは答えた。わたしはまた父母がいつも12時に外出することも話した。翌日の11時に 〜わたしたちは学校に行っていたが〜 彼はまたやってきた。父は彼を迎えた。彼は自分の作品をたずさえてきており、父も、彼がそこにいるのだから、すぐにその場で彼がそれらを弾くのを聴かせてもらえるだろう、と考えていた。彼がほんの数小節を弾きだしたとき、父はそれをさえぎり「ちょっと待ってくれたまえ。妻を呼んでくるから」と言って、いそぎ足で出て行った。その後の昼食のことは忘れられない。父母は、ふたりとも喜びでひどく浮かれていた。 〜彼らは何度も口をひらき、話題は午前中の訪問者、才気ある青年、ヨハネス・ブラームスのことだけに集中した。

ブラームスに最初に応対した張本人のマリエのこの文章は、ブラームスが最初に来訪した時には夫妻が不在で、その翌日に再訪し夫妻との出会いを果たしている事を明らかにしています。これだけならば、最初に来訪したのが9月29日で、出会ったのが9月30日という可能性もありますね。しかし二つのことから最初の来訪が9月30日で、出会いは10月1日であることが推定されます。それは9月30日のクララの日記が落胆に染められていることです。マリエの文章にあるように、ブラームスと会った日にクララは喜びに満ち溢れていたとありますので、もし9月30日にブラームスと会ったのであれば、落胆に満ちた日記を書くことは出来ないでしょう。また、マリエはブラームスが初めて訪問してきた日に、父にブラームスの来訪を伝えたので、ローベルトはブラームスの名を日記に書いたのだと考えられます。翌日、約束どおり11時に再訪したブラームスを迎えたのはローベルト本人ですから、マリエから前日に聞いていなければ考えにくいことです(もし不意の訪問者が有ったときに、一家の家長がいきなり出迎えるでしょうか?)。またクララの10月11日の日記には次のように書かれてもいます。
岸田緑渓:シューマン 音楽と病理 (1993)

10月11日のクララの日記には「今月は素晴らしい人物、ハンブルグ出身の作曲家ブラームス 〜20歳〜 と出会う幸運をわたしたちにもたらした。彼もまた神からじかに使わされた天才のうちの一人なのだ。彼は自作のソナタやスケルッツォを弾いてくれた。それらはすべて豊かな想像力、感性の深さ、形式の統御を示している。ブラームスには差し引いたり、付け加えたりするものは何も無いとロベルトは言っている。」と書かれている。


ここで、クララはブラームスと会ったのが「今月」であると言っています。

マリエの文章は、19世紀末から20世紀初頭のシューマンやブラームスの研究家には知られていなかったと思います。その結果、ローベルトの日記から9月30日にブラームスと会ったという定説が出来上がり、今日に至っているのでしょう。そしてクララ・シューマンの研究では最も緻密な業績を残したナンシー・B・ライクによって(恐らく)初めて、マリエの文章が多くの人に読まれた出版物に掲載されたのです。
ナンシー・B・ライクの「Clara Schumann The Artist and the Woman」の出版された1985年以後には、ブラームスとシューマン夫妻の出会いを10月1日とする文献も少数ですが現われるようになりました。中でもカトリーヌ・レプロンの記述は、恐らく解釈も含めてブラームスとの出会いの場面も最も詳細に記述しています。
 

カトリーヌ・レプロン/吉田加奈子訳:クララ・シューマン 光にみちた調べ (1988/1990)

「ある日、というのは1853年9月30日のことだった。正午頃呼び鈴が鳴った....」長女のマリーが扉を開けた。金髪でひげの無い青年が立っていた。「まるで太陽の様に美しい」青年、とマリーは言っている。青年は繊細な顔立ちをしていた。彼はクララとロベルトに会いたいと弱弱しい、いかにも恐れをなしているような声で言った。マリーは、両親は今留守なのでもし会いたいなら明日の11時ごろ散歩の前にもう一度来てもらわねばならない、と答えた。翌日青年は11時ごろにやって来た。ロベルトが扉を開けた。自分が書いた曲 〜大抵は手書きの原稿〜 を脇に携えて「巨匠」に会いに来る音楽家がまた一人来た、というわけである。この青年はヨアヒムからの紹介状を携えていた。
この青年はボンではヴァレジフスキーのところにいて、ケルンではヒラーと知り合いになったのであった。自分の名前はヨハネス・ブラームス。ハンブルグの出身で20歳、とだけ言った。まるで少年の様だった。ロベルトと同じぐらい無口だった。意思を通わせる一番良い方法は、ピアノに向かい自分の書いた曲を弾くことであった。彼は弾き始めた。ハ長調ソナタの第一楽章の数小節を弾いたところで、もうやめなければならなかった。激しく心を揺さぶられ一種あふれ出る喜びにとらわれて、ロベルトが立ち上がったからだった。妻を呼んでくる、とロベルトは言って走って部屋を出て行った。「クララ!クララ! これまで聴いたことが無い音楽を聴きにおいで!」とロベルトは叫んだ。クララが来た。ハンブルグの青年は再び弾き始めた。現在のドイツで最もすぐれたヴィルトゥオーソの前で、そしてシューマン、その音楽に激しく心を揺さぶられていたシューマンの前で、青年は自分の最初の作品を弾いたのである。その青年はシューマンの音楽の中に、彼自身の神話 〜ホフマンやジャン・パウル〜 の響きを聴いていたのであった。第一楽章、第二楽章、そして第三楽章と弾き進められて行く。シューマン夫妻は喜びにはじけんばかりになり、感動し、驚いた。この日は正午の散歩は無かった。ヨハネス・ブラームスの演奏だけがあった。彼はそのまま残って昼食をとった。午後彼はまた弾いた。クララも弾いた。その晩ロベルトは「家庭日誌」に簡単に書いた。「10月1日、ブラームスが訪れる(天才)」  

私の知る範囲では、この文章がブラームスとシューマン夫妻の出会いの実像に最も近いものだと考えています。以上から、ブラームスとシューマン夫妻の出会いを1853年10月1日とするのが妥当である事に納得頂けますでしょうか。
 
 

最後に、その他の文献の記述をご紹介しておきましょう。ナンシー・B・ライクの出版よりも前に出版された書籍は9月30日としています。岸田さんの本は明確には記述していません。
 

原田光子:真実なる女性・クララ・シューマン (1941)

1853年の9月30日、玄関のベルに答えて、12歳になったばかりのシューマンの娘マリエがドアをあけると、ルックサックを肩に、長靴を泥まみれにした青年がまぶしそうに階段の上に立っていた。青年はややかん高い声で「シューマン博士はご在宅ですか?」といった。これがヨアヒムの紹介状をもって、初めてシューマン家を訪れたヨハネス・ブラームスであった。
 

若林健吉:シューマン 愛と苦悩の生涯 (1971)

9月30日、ヨアヒムの紹介状を携えて「ハンブルグの人」ブラームスが夫妻を訪ねてきた。一度シューマンに作品を送り、未開封のまま送り返されたことのあるブラームスは、ヨアヒムから紹介状を貰ってからも暫くためらっていたが、旅行先のボンで指揮者となっていたヴァジレフスキーの勧めもあり、さらに彼やメーメルの富豪ダイヒマンの見せてくれたシューマンの作品を知るに及んで、意を決してシューマン家の扉を叩いたのであった。
ブラームスはシューマンの求めで、ピアノソナタ第一番ハ長調を弾きだした。暫く聴くとシューマンはブラームスの演奏を止めて「クララにも聴かせたいから」と言って彼女を呼んだ。
クララの日記は語っている。「今日ハンブルグから素晴らしい人物、作曲家のブラームスが来た。20歳である。彼もまた神から直接つかわされて来たような人である。自作のソナタ、スケルッツォなどを我々に弾いて聴かせたが、すべてあふれるばかりの幻想と深い感情、すぐれた様式を示しているのであった。ローベルトは彼から取り除くものも加えるものも無いと言った。」この日からブラームスはシューマン家にとって最も親しい人となった。
 

アラン・ウォーカー/横溝亮一訳:シューマン (1976/1986)

1853年の9月末、折りしもシューマンとオーケストラの理事会の関係が最悪になっていた頃、20歳の青年ブラームスが、ヨアヒムの紹介状を携えてシューマン家にやって来た。ふたりの出会いは音楽史に残る出来事だった。ブラームスはピアノの前に座って、ソナタを弾き始めた。まだ何小節も進まないうちにシューマンは部屋を飛び出し、クララを連れて戻ってきた。
「さあ、クララ、君がまだ聴いたことも無い程素晴らしい音楽を聴かせてあげるよ。君、もう一度最初から弾いてくれないか。」
 

岸田緑渓:音楽と病理 (1991)

9月30日の日記にシューマンは「ハンブルグ出身のブラームス氏」と記し、ついで10月1日には「ヴァイオリンの為の協奏曲を完了する。ブラームス(天才)来訪」とあり、青年ブラームスの天分に夫妻は驚嘆している。10月11日のクララの日記には「今月は素晴らしい人物、ハンブルグ出身の作曲家ブラームス 〜20歳〜 と出会う幸運をわたしたちにもたらした。彼もまた神からじかに使わされた天才のうちの一人なのだ。彼は自作のソナタやスケルッツォを弾いてくれた。それらはすべて豊かな想像力、感性の深さ、形式の統御を示している。ブラームスには差し引いたり、付け加えたりするものは何も無いとロベルトは言っている。」と書かれている。


これ以外の手持ちの伝記は単に9月30日にブラームスがシューマン家を訪問したという記述に近いものしか書かれていないので割愛します。


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