閑話コーナーのリストに戻る    ホームに戻る


私が写真好きであることは御存知でしょうか?。写真の方のホームページには読み物コーナーがあり、相当数の話題を掲載しています。その中で「カラー写真の発明」とクララとは親交の深い「ブラームス」をつなぐ逸話を掲載しましたので、クララのホームページにも転載しておきます。皆さんも写真はいろいろと撮られると思うので、興味深い話題だと思います。この逸話は日本語資料としては極めて稀で、2002年6月現在でインターネット上に全くありませんでした。

写真のホームページ向けに書いた文章なので、クラシック音楽に詳しい皆さん向けというよりも、クラシックには疎いけど写真好きな人向けの物になっています。


 
 
カラーフィルムの誕生とブラームス


皆さんが使われているカラーフィルムの誕生のいきさつを御存知でしょうか?世界初の実用的なカラーフィルムとしてコダックが1935年に16mm動画用コダクロームを発売し、翌年35mmスチル写真(現在最も多く使われているフィルムサイズです)用コダクロームを発売していますが、その発明の裏には19世紀のドイツの作曲家、ヨハネス・ブラームス(1833-1897)が関わっています。

私が写真好きである事は皆さん御存知ですが、実はクラシック音楽好きでもあります。特にドイツロマン派の音楽に関しては写真以上に筋金入りの「マニア」で、ロマン派の代表的な作曲家のローベルト・シューマンの妻である、クララ・シューマンを専門に扱った私のもう一つのホームページ「A Plaza of Clara Schumann」は日本唯一のクララ専門ページであり、世界的に見ても珍しい物です。そしてシューマン夫妻との親交が厚かったブラームスは私の守備範囲でもあります(^^ゞ

コダクローム誕生秘話の事を初めて知ったのは「写真レンズの基礎と発展」小倉敏布著、朝日ソノラマ社のコラムを読んでの事です。それで興味の湧いた私はインターネットで調べてみましたが、日本語では何も出てきませんでした。しかし英語ならば幾つかの記事を発見しましたので、この話題を書く気になりました。どうせ書くのだから、私の写真とクラシック音楽に関するマニアックな知識を活かして、少なくとも日本語圏と英語圏のインターネット上のどの資料よりも詳細な物を書いてみようかと思います(ホントか?)。


コダクロームの発明者は、レオポルド・マネス(Leopold Damrosch Mannes, 1899-1964)とレオポルド・ゴドフスキー(Leopold Godowsky, Jr. 1900-1983)です。二人は共にプロの音楽家で、マネスはピアニスト、ゴドフスキーはヴァイオリニストでした。しかし二人は音楽以外にも写真という共通の趣味を持っていて、それが写真の歴史に金字塔を打ち立てることになりました。

二人が高校生だった1917年、カラー動画(英語資料では映画のMovieではなく、Motion Pictureとありました)と銘打った「Our Navy」を見に出かけました。しかしその色合いはもやがかかったような、鈍くてはっきりしない物で、「自然な色」からは程遠い物でした。意欲的なアマチュアカメラマンであった二人は「もっと良いカラー写真の方法があるはずだ」と考えました。自然な色合いの実用的なカラー写真は50年以上に渡って著名な科学者たちが研究を続けながら、当時まだ誰も成功していないものでした。その当時すでにコダクロームという商標のカラーフィルムは存在していましたが(1914年発売)、それは三原色ではなく二色で再現するカラー写真で、ポートレートには使えたものの、風景などの多彩な色を含む被写体には使い物にならないフィルムでした。後日コダクロームはこの二人の発明するフィルムの名前になりますが、彼らのコダクロームはオリジナルの二色コダクロームとは全く関係の無い物です。

さて、16〜17才のマネスとゴドフスキーは高校の物理の実験室でカメラと投影装置を製作しました。それは三つ一組のレンズとフィルターからなり、それぞれが三原色の一つを受け持ちます。その装置が生み出した写真はそれまでにない色再現性を備えており、二人はこの装置で特許を取得しました。しかしまだそれは実用化できる手法ではありませんでした。

その後ゴドフスキーはUCLAに入学し、ロスアンジェルス交響楽団のヴァイオリニストになります。一方のマネスはプロのピアニストとしての活動を続けるかたわらで、ハーバード大学で物理を専攻しました。アメリカ大陸の西と東に離れ離れになった二人ですが、より良いカラー写真の手法を目指した共同作業は続けました。1922年になるとゴドフスキーはカリフォルニアでの仕事を辞めてニューヨークに戻り、そこで音楽家として活躍していたマネスと共に、音楽活動の余暇時間にカラー写真の開発に打ち込む事になります。仕事があればベートーベンなどを演奏し、演奏会が終わるとすぐに彼らの実験室に戻って写真の研究に勤しむという生活が始まったのです。彼らは台所と風呂場を研究室と暗室にしてしまったため、彼らの両親にとっては迷惑千万な事ではありました...

1922年にマネスがヨーロッパに演奏旅行に出かけたときに、ベンチャー投資会社のKuhn-Loeb and Co.(クーン&レーブ社)の重要なポジションにある人物と知り合うことが出来ました。その人物はマネスの話を聞いて、カラー写真に対する熱烈な構想に大いなる興味を持ちました。その数カ月後にKuhn - Loeb社からLewis L. Strauss(ルイス L. シュトラウス、30年後に米国原子力委員会会長になった人物)がマネスのアパートを訪問して、マネスとゴドフスキーはとてもビックリしたと伝えられています。シュトラウスは二人のカラー写真の研究成果を子細に視察して帰りました。

アパートが寒かった為に、二人のカラー写真研究の現像処理はとても長い時間を必要としました。しかしKuhn-Loeb社が二人に2万ドルを投資したおかげで、二人は研究に適した実験室を建設し1924年には更なる特許を取得することに成功しました。Kuhn-Loeb社の2万ドルの投資は、同社にとって史上最も大きな利益をもたらした投資となったそうです。1930年、イーストマン・コダックは二人の発明とその成果に大きな関心を寄せて、二人のカラーフィルムに関する発明の使用権を買い取り、更にコダック研究所設立者のケネス・メース博士(Dr. C.E. Kenneth Mees)に二人をコダックに招聘させて、研究室を二人のために設置して彼らを研究員に配置しました。
 

1933年までに、マネスとゴドフスキーはコダック研究所のスタッフと共に、世界初の市販可能な3色の感光層を持つホームカラームービーフィルムとその現像プロセスを開発しました。この歴史的な大発明の内容は、ゼラチンのロールフィルムに三つの感光剤をコーティングしたもので、それら感光剤はそれぞれ赤、緑、青の色にだけ反応しました。そして現像過程において、シアン、マゼンタ、イエローの色素を各感光剤に加えることで、自然な色のポジ画像が出来上がる仕組みでした。この発明の成功によりコダックは1935年4月15日にに世界初の実用カラーフィルムである16mm映画用コダクロームを、翌年1936年(1935年という説もあり)には35mmスチル写真用コダクロームを発売したのです。

さて?本題のブラームスはいずこに???

このコダクロームの発売の1年前、恐らくはコダクロームの市販化に向けた最終研究段階にあった1934年、彼らはテスト撮影フィルムの現像処理を真っ暗な研究室で行っていました。彼らには時間を正確に計る必要がありましたが、もちろん時計は見えません。そこで二人のプロの音楽家であり、アマチュアからプロに転向した科学者の採った手段は...

ブラームスの交響曲第1番、第4楽章のあるフレーズを、2拍を1秒というリズムで口笛で演奏しながら、正確な時間を計ったのです!
...二人はコダクロームの発売後もコダック研究所で研究を重ね、1941年に発売されたコダカラー・ネガフィルム、1942年に発売されたエクタクローム(コダクロームとは異なり、現在主流となっている色素を乳剤にあらかじめ含ませたポジフィルム)の礎を築いたとされています。二人はやがてコダックを去り元の音楽家の道を歩みます。マネスは1939年にコダックを去っていますが、ゴドフスキーがコダックを去った年は調べた範囲では分かりませんでした。

この逸話はコダクローム伝説として英語圏で語り継がれています...ブラームスが、そしてそれを愛好する音楽家がいなければ、現在のカラーフィルムは生まれなかったか、もっと違う形になっていたのかも知れません。そう思うと、あなたもブラームスを一度聴いてみたくなりませんか?

次回は、カラーフィルムの生みの親であるレオポルド・マネスとレオポルド・ゴドフスキー、そして彼らが暗室で口笛吹いて時間を計ったとされるブラームスの「コダクロームのメロディ」について書いてみましょう。


 
 
ブラームス作曲、コダクロームのメロディ


今回はカラーフィルムの生みの親であるレオポルド・マネスとレオポルド・ゴドフスキー、そしてその誕生に重要な役割を果したヨハネス・ブラームスと、彼の交響曲第1番第4楽章について語ってみます。

レオポルド・マネス(Leopold Damrosch Mannes, 1899-1964)はニューヨークで生まれ、ニューヨークとパリで作曲とピアノについて学びました。その後、彼のお父さんが設立したマネス学院(the Mannes school)で1824年から1831年まで作曲を教え、また後のジュリアード音楽学院となったInstitute of Music Artで1827-1831年まで音楽理論を教えています。1831年にはこれらの音楽教授職を離れてコダックに入社し、コダクロームの発明に従事しました。1839年に彼はまたマネス学院に戻り、やがてマネス音楽大学と改称後にその学長に就任しました。
彼は音楽教授だけではなく、プロの演奏家(ピアニスト)として幾つかの録音も残しており、CDの入手が可能です。マネス・トリオという名前でピアノトリオのCDを残しています。

レオポルド・ゴドフスキー(Leopold Godowsky, Jr. 1900-1983)はシカゴで生まれ、著名なヴァイオリニストとしてロチェスター交響楽団で演奏活動をした人です。またサンフランシスコ交響楽団の第一バイオリニストでもありました。学生時代はロスアンジェルス交響楽団のヴァイオリニストもしていました。後にゴドフスキーは「ラブソディ・イン・ブルー」で知られる有名な作曲家のジョージ・ガーシュインの娘のフランセス・ガーシュインと結婚しました。彼女は才能ある声楽家であり、後に画家と彫刻家として知られるようになった女性です。

レオポルド・ゴドフスキーという名前を聞いて驚かれている人もおられると思います。この名前はクラシックのピアノを愛好する人なら何処かで聞いたことのあるだろう名前だからです。私もゴドフスキーの編曲によるピアノ作品のCDを二枚ほど所有しています。しかしこれはコダクロームを発明したレオポルドのお父さんの方です。
お父さん(Leopold Godowsky 1870 - 1938)はリトアニアで生まれました。ピアノは当初独学で学びましたが、やがてベルリン高等音楽院で学びました。1900年にはベルリンでプロデビューを果し、当代一流のピアニストであったブゾーニと人気を二分するほどの成功を収めました。しかしその後の彼のコンサート活動はあまり成功しなかったようです。
父のレオポルドは音楽教育者としてウィーン音楽アカデミーにも籍を置いていましたが、その後アメリカに渡り、生涯を閉じています。
レオポルド・ゴドフスキーの名を現代に知らしめているのは、ショパンの練習曲の編曲や、バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ&パルティータのピアノ編曲などでしょう。特にショパンは、オリジナルでも十分に難曲なのに、それを左手だけの演奏に編曲した物も含まれ、その難易度はピアノ曲の中で歴史上最高との折り紙も付けられたりしています。この曲の音符を取り敢えず音に出来るだけでもピアノ演奏技術はプロとして一流、そこに音楽性まで付加出来れば超一流とされるほどなのです。

そんなビッグ・ネームのピアニスト&作曲家の息子がカラーフィルムを発明したとは....

本業はプロのヴァイオリニストであったレオポルド・ゴドフスキーJr.は、世の中ではやはりカラーフィルムの発明者としての方が有名で、奥さんのフランセス・ゴドフスキーと、その息子のレオポルド・ゴドフスキー三世(親子三代みんな同じ名前ですね)によって、「レオポルド・ゴドフスキーカラー写真賞(The Leopold Godowsky Jr. Color Photography Awards)」が設立されています。これはカラー写真の分野で功績のあった人を表彰する物です。
 

ヨハネス・ブラームス(Johannes Brahms 1833-1897)は北ドイツのハンブルグで生まれました。ドイツ3Bの一人(Bach, Beethoven, Brahms)と称される作曲家で、音楽の授業にも必ず出てきますから、誰もがその名を聞いたことはあるでしょう。ブラームスが音楽界に彗星のごとくに現れるきっかけとなったのは1853年9月にシューマン家を訪れたことで、シューマンは若きブラームスの天才性に感銘して、シューマンが主宰していた「新音楽時報」の中で華々しくブラームスを紹介したのでした。その時以後、ブラームスとシューマン家の深い親交が始まり、1856年のシューマンの死後は、その妻クララと歴史に残る音楽的親交をお互いが死ぬまで続けたのです。

ブラームスの交響曲第1番・ハ短調・作品68はベートーベンの不滅の9つの交響曲に続く偉大な曲として「第10交響曲」と呼ばれています。彼は作品が出来上がってもなかなか出版せず推敲を重ねた人で、その完成度には定評がありますが、交響曲第1番は彼の慎重癖の中でも極めつけ、作曲開始が1855年、完成が1876年なので実に21年もかけた大曲なのです。この曲は数時間から数日で作曲され、数年で忘れ去られて行く最近の音楽とは「深み」が違います。「色彩感」には溢れていますが、古今の流行歌の様な軽薄な色合いではなく、とても「荘厳」「深淵」「渋い」のです。「人生の感情をそのまま写した」ような音楽です(まるでコダクロームの発色ですね)。

注釈;コダクロームというフィルムは、現在主流のスライドフィルム(フジクローム、エクタクロームなど)に比べると極めて独特の発色をすることで有名で、その傾向は渋く、深みのある色合いになっています。
さて、問題はコダクロームの誕生の鍵を握った「コダクロームのメロディ」はどれか?という事です。最終楽章(第4楽章)という事ははっきりしていますが、カール・ベームの演奏で18分近くもある第4楽章の中から探し出さなければいけません。鍵は「2拍を1秒」で「口笛で演奏できる」部分です。するとありました!この楽章の中間部分、4分の4拍子で、ハ長調の明るめの音楽にかわり、ヴァイオリンが壮麗優雅なメロディを奏でる部分。ここなら口笛で2拍を1秒で歌えます。では本邦初公開(?)、ブラームスによるコダクロームのメロディの冒頭部分です!




お手元にこの曲のCDをお持ちの方は、是非聞いてみてください。一度聞けば簡単に覚えられる名旋律です。

コダックのフィルムで長時間露出するあなた、時計を見て時間を計るのも良いですが、コダックの伝統と伝説に従えば、このメロディを口ずさみながら時間を計る事が正当な儀式とされています(^^;。
2拍1秒として口ずさむ事は難しくありません。是非それをマスターして、正確な体内時計で良い写真を撮ってください(^^ゞ
 

ブライチ(ブラームスの交響曲第1番)の第4楽章、冒頭部分はとても暗い音楽です。夜の闇に包まれた森の中の情景の様な短調の音楽...やがてホルンが夜明けの雰囲気の緩やかで爽快な旋律を奏でます。そして、問題のコダクロームのメロディ、これは夜が明けた喜びと活動的な雰囲気を表した優美で躍動的なものです。マネスとゴドフスキーの二人のレオポルドは、ほぼ成功の兆しの見えたコダクロームの実験に際して、彼ら自身が夜のとばりから朝日を迎えた気持ちになったのでしょう。そんな情景が目に浮かぶ様な音楽です。そしてこの夜明けは、そのまま第4楽章の最後であり、この大曲のフィナーレに向かってクライマックスを迎えるのです。

ところで二人は星の数ほどもある音楽の中から、何故ブライチの第4楽章のこのメロディを選んだのでしょう?二人の研究は最初の着手から既に20年近くが経過していました。そして長い紆余曲折の末に、暗やみの中に光明を見出し、夜明けを確信したのでしょう。ブラームスが若い頃に着手し(作曲開始は21才)、完成に21年を費やした大曲ブライチの最終楽章、そのクライマックスに向かう導入部分、日の出を演出したようなメロディ。自分たちの研究人生を重ね合わせたときに、音楽のプロであった彼らにとってそれは当然の選択であったと言えるかも知れません。

その音楽の通りに、クライマックスを経た現在は、カラー写真の長い暗やみから解き放たれて、世界中の多くの人々がカラー写真の恩恵にあずかっているのです。
 
  

最後に、ブラームスの交響曲第1番第1楽章の冒頭メロディは、クララ・シューマンの未完のピアノ協奏曲の冒頭メロディから採られています。そしてコダクロームのメロディの直前の、夜明けを伝えるホルンのメロディは、ブラームスがクララに贈った「アルペンホルンの旋律」と呼ばれています。こんな所にコダクロームとクララを結びつける秘密が隠されていて、私は一人感激に耽っています(^^ゞ
 


閑話コーナーのリストに戻る    ホームに戻る