年
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出来事
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1785 |
8月18日:父・フリードリッヒ・ヴィーク誕生。 |
1797 |
5月17日:母・マリアンネ・トムリッツ誕生。 |
1810 |
6月8日:ローベルト・シューマン誕生。 |
1816 |
6月23日:フリードリッヒ・ヴィークとマリアンネが結婚。 |
1817 |
8月10日:長男、アーデルハイド誕生。(注:アーデルハイドは一般的に女性名ですが、文献により長女と長男の両説があり、ここでは多数派説の長男としておきます。) |
1818 |
5月12日:長男、アーデルハイド死去。 |
1819 |
9月13日:
長女・クララ・ヨゼフィーネ・ヴィーク誕生。ライプツィヒにて。父により名づけられた「Clara」は「光輝く人」という意味。 |
1821 |
8月27日:次男・アルヴィン誕生。 |
1823 |
1月31日:三男・グスタフ誕生。 |
1824 |
2月22日:四男・ヴィクトール誕生。
5月12日(4歳):
母・マリアンネがヴィークの家を出る。
9月18日(5歳):
父ヴィークがクララに対して定期的なピアノレッスンを始める。(この数カ月前に母からのレッスンが始まっており、従って伝記には4歳でピアノを始める、と書いてある事が多い) |
1825 |
1月22日(5歳):
父と母の離婚成立。(同年8月に母マリアンネは、アドルフ・バルギールと再婚) |
1827 |
1月27日:四男・ヴィクトール死去。
9月9日(7歳):
私的な演奏会を開き、ゲヴァントハウスの楽員の伴奏でモーツアルトの協奏曲を弾き、人々の驚嘆をかう。 |
1828 |
3月31日(8歳):
カールス邸の演奏会でフンメルのトリオを演奏する。この時にローベルト・シューマンに初めて出会う。
7月3日:
父が再婚。新しい母の名はクレメンティーネ。
8月:
ローベルトがヴィーク家にて、ヴィークからのピアノレッスンを始める。
10月20日(9歳):
ライプツィヒ・ゲヴァントハウスにて初めての公開演奏会を開く。 |
1829 |
5月11日(9歳):
ローベルトは一旦ヴィーク家でのピアノレッスンを止めて、ハイデルベルグに行く。
10月4日(10歳):
パガニーニを訪問し、自作のポロネーズを聴かせて大変気に入られる。 |
1830 |
10月20日(11歳):
ローベルトがヴィークに正式に弟子入りして、ヴィーク家に引っ越す。
11月8日:
ゲヴァントハウスにて、最初のソロコンサートを開催する。(当時のコンサートは複数の演奏家による物が多く、1人だけのプログラムは珍しかった。) |
1831 |
10月1日(12歳):
ワイマールにてゲーテの御前で演奏する。翌週にまた演奏をして「6人の少年を集めた以上の力がある」と賞賛される。 |
1832 |
11月(13歳):
ツヴァイカウに演奏旅行に行き、ローベルトの母に会う。ある日ローベルトの母は側にいた少女を我が胸に暖かく引き寄せて「いつかローベルトと結婚してくださいね」と静かにささやいた。 |
1833 |
5月7日:ヨハネス・ブラームス誕生。
8月1日(14歳):
ロマンス・ヴァリエ・作品3をローベルトに献呈。その返礼としてローベルトはクララ・ヴィークの主題による即興曲・作品5を作曲し、父ヴィークに献呈。
《この頃に二人の間の愛が確かな物になる。》 |
1834 |
4月21日(14歳):
エルネスティネ・フォン・フリッケン嬢がピアノレッスンの為にヴィーク家に同居する(後にローベルトと婚約騒動を起こした女性) |
1835 |
9月13日(16歳):
誕生日をローベルト、メンデルスゾーンなどと祝う。この日、メンデルスゾーンと彼の「二台のピアノの為のカプリース」作品5を連弾で弾く。
11月25日:
クララとローベルトのファーストキス! |
1836 |
正月(日付不詳)(16歳):
ヴィークにクララとローベルトの交際がヴィークの知るところとなり、ヴィークはふたりの交際を禁止。
2月4日:ローベルトの母、死去。
2月7-11日の間:
ヴィークの不在中に2人が密会。それがヴィークに知られて文通すら禁止される。この時ふたりは結婚の約束をしたらしい。
9月12日:
ショパンがヴィーク家を訪問。クララの作品5を聴いて絶賛し、楽譜を所望する。 |
1837 |
8月13日(17歳):
ローベルトから結婚の意思の再確認の手紙。
8月15日:
クララから承諾の返事。(以後、この中間日の8月14日をふたりは正式な婚約記念日とした)
9月13日(18歳の誕生日):
クララとの結婚の承諾を求めるローベルトの手紙を、クララから父ヴィークに手渡す。しかし結果は燦燦たるものに。
10月15日:
クララとヴィークはウィーンに演奏旅行に旅立つ。 |
1838 |
1月(18歳):
ウィーンにて皇帝の御前で演奏する。
3月15日:
クララは王宮廷内室内楽演奏家の称号を与えられる。また(恐らく後日)楽友協会の名誉会員にも指名される。
4月11日:
ウィーンにてリストと会い、お互いの曲を演奏しあう。
5月13日:
ウィーンからライプツィヒに帰り着く。 |
1839 |
1月9日(19歳):
クララは1人でパリに向けて旅立つ。
6月16日:
パリにてクララはローベルトから届いた訴状にサインして、父ヴィークに対し訴訟をおこす。(8月13日にクララはパリを離れ、ライプツィヒに向かう)
10月2日(20歳):
裁判の第1回審理。 |
1840 |
8月12日(20歳):
裁判の判決が下り、2人の結婚が認められる。
9月5日:
クララ・ヴィークとしての最後のコンサートをワイマールで開く。
9月11日:
ローベルトからクララに、歌曲集「ミルテの花」作品25が贈られる。ミルテは花嫁の頭に被せる花冠に使われる花。
9月12日:
結婚。ライプツィヒ郊外のシェーネフェルトの教会にて。参列者はクララの実母マリアンネ・バルギールと、友人エルンスト・ベッカーのふたり。新居は「インゼル街5番」。
9月13日:
クララ21歳の誕生日。 |
1841 |
3月31日(21歳):
ライプツィヒ・ゲヴァントハウスにて「クララ・シューマン」としての最初のコンサートを開く。
9月1日:
長女マリエ誕生。
年末頃から:
遠方での演奏会を含めて、コンサートピアニストとしての活動を本格的に再開する。 |
1843 |
1月21日(23歳):
父ヴィークから和解の手紙が届く。
4月25日:
次女エリゼ誕生。 |
1844 |
1月25日〜5月30日(24歳):
ロシア(聖ペテルスブルグ、モスクワ)にローベルトと共に演奏旅行。
その後ローベルトの容体が悪化し、静養を試みたが上手く行かず、環境を変える事に望みを託して12月13日にドレスデンに転居。 |
1845 |
3月11日(25歳):
三女ユーリエ誕生。
7月29日:
ローベルトのピアノ協奏曲・イ短調・作品54が完成し、クララは「王様のように幸福です」と日記に書き記す。 |
1846 |
2月8日(26歳):
長男エミール誕生。 |
1847 |
5月14日(26歳):
友人のファニー・ヘンゼル(ファニー・メンデルスゾーン)死去。
5月22日:
長男エミール、15ケ月の生涯を閉じる。
11月4日(27歳):
親交の厚かったフェリックス・メンデルスゾーン死去。 |
1848 |
1月20日(28歳):
次男ルートヴィッヒ誕生。 |
1849 |
5月3日(29歳):
ドレスデンにも革命が勃発。5月5日には革命の騒乱から病弱なローベルトと子供たちをマクセンに脱出させる為にクララは果敢に行動する。
7月6日:
三男フェルディナンド誕生。
秋:
ヒルラーからローベルトにデュッセルドルフ管弦楽団と合唱団の指揮者のオファーがある。 |
1850 |
9月2日(30歳):
デュッセルドルフに転居。 |
1851 |
12月1日(32歳):
四女オイゲニー誕生。 |
1853 |
5月15日(33歳):
ヨアヒムがデュッセルドルフに来る。翌日、ヨアヒムがシューマン家を訪問しローベルトのヴァイオリンソナタ・イ短調を演奏。この後シューマン家ではヴァイオリン曲の作曲フィーバーが始まる。
9月30日(34歳):
ブラームス来訪。当日はシューマン夫妻が不在で、翌10月1日にブラームスとシューマン夫妻が初めて対面する。 |
1854 |
2月27日(34歳):
ローベルトがライン川に投身自殺を図るが救助される。
3月4日:
ローベルトがエンデニッヒの精神病院に入院。この後2年間、医師からローベルトとの面会を禁止される。クララがローベルトに面会出来たのは死の2日前。
6月11日:
四男誕生。1855年元旦にローベルトの意思により、メンデルスゾーンの名前をとって「フェリックス」と命名される。 |
1856 |
7月27日(36歳):
ローベルト危篤の知らせで、クララは入院後初めてローベルトと面会出来る。ローベルトのこの日の言葉は「私の...(クララ)、分かるよ...」
7月29日午後4時:
ローベルト・シューマン死去。クララはこの時ブラームスと共にヨアヒムを駅に迎えに出ていた。ローベルトの亡骸に対面したのは死後30分後。 |
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1857 |
1月1日(36歳):
一家の家計の為に、コンサートピアニストとしての演奏活動を再開。この日はライプツィヒ・ゲヴァントハウスでの演奏。
春:
初のイギリス演奏旅行。
この後、毎年10月から翌年5月を演奏会シーズンとして、欧州各地で演奏会を開催する。
9月末(37歳):
ベルリンに転居。
11月頃:
ミュンヘンにて寒さと過労でリューマチを患う。このリューマチは生涯に渡りクララを苦しめることに。 |
1859 |
4月〜5月(39歳):
2回目のイギリス演奏旅行。この後、1888年まで毎春クララはロンドンに演奏旅行に赴く。 |
1862 |
7月(42歳):
ドイツ南西部のバーデンバーデン、リヒテンタール(光の谷)街14号に一軒屋を購入する。シューマン夫人の名声に比して質素な家だったので、家族は「犬小屋」という愛称をつけた。
翌年からシューマン家は習慣として5月から9月の間をバーデンバーデンで、9月から翌年5月までは、クララは演奏旅行、子供たちは寄宿舎、親戚などの元で過ごす様になる。ブラームスも事実上の家族の一員としてバーデンバーデンやベルリンのシューマン家に出入りする。 |
1869 |
7月10日(49歳):
三女ユーリエがイタリア貴族のヴィクトル・ラディカッティ・マルモリート伯爵から正式な結婚の申し込みを受ける(前年に求婚されていた)。
7月11日:
クララはユーリエの結婚を承諾。密かにユーリエを愛していたブラームスがショックを受ける。
9月22日(50歳):
ユーリエの結婚式。バーデンバーデンのカトリック教会にて。
10月?(ユーリエの去った後で、シューマン家がバーデンバーデンを離れる直前):
ブラームスがアルト・ラプソディをクララに聴かせる。アルト・ラプソディはブラームスがユーリエを失った苦悩をぶつけた曲だとされる。 |
1872 |
3月10日(52歳):
実の母、マリアンネ・バルギール死去。
11月10日(53歳):
三女ユーリエが27歳で三人目の子供「キアリーナ」を身ごもったまま死去。
※ユーリエの最初の子供は「エドヴァルド」。二人目は「ローベルト」。三人目の「キアリーナ」とは勿論ローベルトのピアノ曲「謝肉祭」作品9の第11曲。「クララ」のことである。 |
1873 |
10月6日(54歳):
父フリードリッヒ・ヴィーク死去。 |
1877 |
(57歳?):ローベルトの作品全集の編纂を始める。 |
1878 |
ベルリンからフランクフルト・ミリウス街32番に転居。クララはフランクフルトにて音楽院の教授を始める。
10月20日(59歳):
クララ・シューマン演奏生活50年記念祝賀会。フランクフルトにて。
10月24日:
クララがデビューを飾ったライプツィヒ・ゲヴァントハウスにて演奏生活50年記念祝賀会。 |
1879 |
2月16日(59歳):
四男フェリックス死去。 |
1880 |
5月2日〜3日(60歳):
2日にシューマン記念碑が完成。翌3日11時30分に除幕式。現在のクララとローベルトが眠る墓のモニュメントです。 |
1881 |
(〜1893)クララの編集による「ローベルト・シューマン 作品全集」が出版される。 |
1885 |
クララの編集による「ローベルト・シューマン 若き日の手紙」(Jugendbriefe)出版。 |
1890 |
(70歳頃)この頃からクララの聴覚が減退する。「音楽が断片的に聞える」(日記) |
1891 |
3月21日(70歳):
最後の公開演奏会。
春:
体力、聴力の衰退から、音楽院の教授職を辞職。 |
1896 |
3月24日(76歳):
最後の日記を記す。「また苦しい夜。私は死ぬかもしれない」
5月7日:
絶筆。ブラームスの誕生日を祝う手紙。
「心からのお喜びを。心からあなたの クララ・シューマン
今はこれより書けません。でも、近く、あなたの...」
5月20日4時21分:
クララ・シューマン永眠。享年76歳。
5月24日:
ローベルトの眠る墓に埋葬される。
5月-7月:
ブラームスがクララの死を悼み「四つの厳粛な歌」を作曲(5月)。それをマリエ・シューマンに手紙と共に送付する(7月)。クララと出会ってから、ブラームスが新作をクララに見せる事の出来なかった最初の曲となる。 |
1897 |
4月3日:
ヨハネス・ブラームス死去。 |
1899 |
1月9日:次男ルートヴィッヒ死去。 |
1928 |
7月1日:次女エリゼ死去。 |
1929 |
11月14日:長女マリエ死去。 |
1938 |
9月25日:四女オイゲニー死去。 |