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※曲目のデータなどは、ナンシー・B・ライク著「クララ・シューマン、女の愛と芸術の生涯・高野茂 訳」をベースに作成し、手持ちのCDの解説を参考にして補填しました。
即興曲「ヴィーンの想い出」 作品9
Souvenir de Vienne, Impromptu pour le Pianoforte
(ヴィーンの想い出、ピアノの為の即興曲〜初版の表題に記されたタイトル)
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作曲年;1838年春(18才)、ヴィーン
(クララの1838年4月11日付けの日記に「今日、ヴィーンの想い出を完成させた」と書いている)
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初演;1838年4月30日、グラーツ
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出版年;1838年(18才)(同年7月13日にローベルトはクララに、数日前にヴィーンの想い出の出版譜を受け取ったと手紙を書いている)
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献呈者;無し
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自筆譜の所在;不明。但し、鉛筆による訂正、末梢などのある彫版士に向けた原譜が、東ベルリンのドイツ国立図書館に所蔵されている。
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演奏時間;6'11" (Jozef de Beenhouwer盤)
この曲はその名の通り、ウィーンで歓待され、ピアニストとしての成功を治めたクララが、ウィーンに捧げた想い出の曲です。その曲の中には、この時クララが置かれていた逆境の片鱗も無く、苦しい時につかんだ一つの光明の様な、華麗で明るい旋律が刻まれています。
1837年8月13日、ローベルトクララに結婚の意思を確認する手紙を出します。
「・・・、どうか簡単に『ハイ』とお返事を下さい。
・・・僕は全霊を傾けて本気で申し上げます。そして僕の名を署名いたします」
その二日後の8月15日に、クララはローベルトに返事を書きます。
「ただ、簡単に『ハイ』とだけ書けと仰いますのね。短い言葉、けれど大切な言葉..
...ですからもう一度『ハイ』と申し上げます。」
この手紙のやりとりで二人はお互いの意思を確認しあい、ローベルトが手紙を出した翌日の1837年8月14日を正式な婚約の日としました。ローベルトはクララの18歳の誕生日の1837年9月13日に、クララの父フリードリッヒ・ヴィークに結婚の承諾を得る手紙を渡して、正式に結婚を申し入れました。しかしヴィークとの会見は決裂し、二人は一切の文通も、二人だけで会うことも禁止されてしまいました。
その後の涙に暮れる日々を過ごしていたクララは、父ヴィークと女中の三人で、10月15日にヴィーンに演奏旅行に出発しました。
当時のウィーンでは、ショパンがそこそこ知られているものの、メンデルスゾーンすらあまり人気がなく、シューマンに至っては新音楽時報の編集者としてのみ知られており、作曲家としての知名度は皆無という状況でした。そこでウィーンに到着したクララは、まず選ばれた人達に対して私的な音楽会を催し、音楽に真に理解する人達と打ち解け会いました。そして数回の公開演奏会の開催にこぎ着けました。
第一回目の公開演奏会(12月14日)は大成功で、クララは12回もステージに呼び戻されたとあります。第二回目の公開演奏会(12月21日)では、ウィーンではまだ演奏されたことの無かったバッハのフーガが加えられました。これも大成功を収め、クララはディアベリからシューベルトの遺作の四手用の二重奏曲ハ長調(D.812)を献呈されました。第三回目の公開演奏会は1838年1月7日に開催され、クララの手紙によれば、当時全く弾かれることの無かったベートーベンのソナタ・ヘ短調<熱情>と、ローベルトの謝肉祭がプログラムに加えられたようです。この公開演奏(もしくはその直後の私的な演奏会)は皇帝の御前での演奏となり、クララは王宮廷内室内楽演奏家の称号を与えられたのでした。またクララはベートーベンの紹介者として各方面から絶賛を受け、楽友協会の名誉会員にも指名されました。第4回目の公開演奏会(日付不詳)にはリストとタールベルグの曲が演奏されました。この曲達は当時作曲家自身以外は演奏不可能な難曲と信じられていたので、それを見事に弾ききったクララは、演奏技量の面でも注目を浴びることとなったのです。これら一連の大成功の結果、ウィーンではクララの演奏会のチケット販売に人々が殺到し、整理に警官が出動しなければならなかったとか、ヴィーク風トルテ(クララ風ケーキ)が発売されて人気があったとかいう逸話も伝えられています。更にクララはシューベルトの「魔王」の直筆譜をシューベルトの友人から贈呈されたりもしました。
4月11日にはウィーンのクララを、当代最高の評判を勝ち得ていたリストが訪問しました。そしてお互いがお互いの曲を弾き合い、感銘を受けて親睦が計られたのでした。リストは4月18日に演奏会を開催しましたが、その時既にクララはグラーツに向けてウィーンを旅立ったのでした。
このウィーンでの一連の大成功によってクララのピアニストとしての地位と経済的な基盤は確固たるものになりました。ローベルトとの結婚話が父と決裂した哀しみの後の、ウィーンでのピアニストとしての大成功。その直後に書かれたのが、即興曲「ウィーンの想い出」作品9です。クララの日記(当時、実際には父のヴィークが書いていたもの)の4月11日分に「ウィーンの想い出を完成させた」とあり、また7月12日付けのクララから父への手紙の中で「それはちょっと退屈な曲かも知れません。だって、あまりに短期間に作曲したものですから」とありますので、恐らくは1838年4月のリストが来る直前に作曲されたものだと思われます。そしてウィーンを旅立った直後の1838年4月30日、グラーツで初演されました。
曲は短いアダージョの後で、ハイドンの皇帝讃歌のテーマが流れて、その後は変奏するというよりも、皇帝讃歌の旋律を即興的に修飾するような形で音楽が刻まれて行きます。それはあくまで優しく、明るく、希望に満ち、ピアニストとしての技量とか華やかさを披露する要素も合わせ持った音楽です。クララとローベルトの間に当時横たわっていた苦境をしばし忘れて、ウィーンでの良き想い出に浸った音楽なのです。ナンシー・B・ライクはこの曲を高くは評価していませんが、私は鼻歌で歌ってしまうような、かなり気に入っている曲です。
1838年4月30日のグラーツでの初演は「熱狂的賞賛を得た」とクララの日記に書かれています。また同日付けのクララからローベルトへの手紙の中でも「私のウィーンの想い出は、小さな即興曲ですが、ここの聴衆をすぐに虜にしました」と書いています。7月13日付けのローベルトからクララへの手紙の中では「数日前にウィーンの想い出(の出版譜)を受け取った。この曲は僕を喜ばせてくれた。」とありますので、当時のこの曲の評価は良かったようです。
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