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※曲目のデータなどは、ナンシー・B・ライク著「クララ・シューマン、女の愛と芸術の生涯・高野茂 訳」をベースに作成し、手持ちのCD及び「クララ・シューマンピアノ曲集 森潤子校訂、音楽之友社」の解説を参考にして補填しました。
ロマンス イ短調(作品番号無し)
ROMANZE
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作曲年;1853年7月(33才)
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初演;不明
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出版年;1987年(没後91年)
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献呈者;--(ロザリー・レーザーの為に作曲)
スコアの表紙には「私の忠実なロザリーの為に作曲。1853年7月。クララ・シューマン、デュッセルドルフ」と記されている。作業用のコピーには1853年7月23日の日付がある。
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自筆譜の所在;東ベルリンのドイツ国立図書館
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演奏時間; 4'17" (岩井美子盤)
この曲は1853年6〜7月に作曲された4つのロマンスの中の一つですが、作品21「3つのロマンス」に組み入れられませんでした。その後出版されないまま100年以上の月日が流れ、1987年に出版されました。
事実上の献呈者であるロザリー・レーザー(Rosalie Leser)とはデュッセルドルフに住んでいた目の不自由な女性で、シューマン夫妻がドレスデンからデュッセルドルフに引っ越した1850年9月1日の直後からシューマン家と親交を深めた、クララにとってはかけがえのない親友であったようです。レーザー嬢は音楽家ではないので伝記を読んでいてもスポットライトを浴びることがありませんが、改めて何冊かの伝記を読み直すと、既に1850年11月15日のクララ日記にはレーザー嬢の名前が並み居る音楽家たちと同列で現われ、楽しい音楽夜会を開いたと書かれています。その後もクララの日記には頻繁にレーザー嬢が登場します。中でも殆どすべての伝記がレーザー嬢の名前を挙げている出来事はローベルトのライン川への投身自殺未遂です。この時に動転したクララ(妊娠6ケ月でした)とその子供たちがレーザー嬢を頼ってその危機を乗り越えてた事が、長女マリエの証言として記載されています。さらにローベルトがエンデニッヒに入院した後も、クララはレーザー嬢をブラームス、ヨアヒムと同様に頼りにした事が記録にあり、また入院中のローベルトからの手紙の中にもレーザー嬢の名前が現われます。当時の苦難を乗り越えたクララは正に男勝りの勇敢さ、気丈さを持っていましたが、その苦難の中で唯一心を許せる同性の親友がロザリー・レーザー嬢だったのかも知れません。レーザー嬢はクララが亡くなる2日前(1896年5月18日)にこの世を去ったそうです。
さて、曲の印象ですが、全体は三部形式になっていて、最初のイ短調部分は極めてゆったりとした、デリケートかつセンチメンタルなメロディで満たされています。中間部はイ長調で、薄日が射したような明るさとでも例えられるような、依然としてゆったりとしたデリケートさに満ちた長調のメロディになります。最後はまたイ短調に戻り静かに曲は終わります。クララの後期作品ならではの、触ったら壊れてしまいそうな美しさに満ちた佳品です。
この曲をなぜ作品21に組み入れなかったのか、専門家の説は色々でしょう。私にはクララがこの曲だけはレーザー嬢に捧げたかった様に思えます。作品21の第一曲は1853年のローベルトの誕生日に作品20と共に贈られ、その後作品21全曲はヨハネス・ブラームスに献呈されています。
ロマンス・イ短調冒頭部分譜例
森潤子校訂 クララ・シューマンピアノ曲集(音楽之友社)より
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