原田光子さん

30才のころの原田光子さん(原田汀子さん所蔵)


略歴
明治42年/1909年12月13日 東京に生まれる。
大正12年/1923年 東洋英和女学校二年在学中にドイツに留学。ハンブルグにてハンス・ヘルマンの高弟デラカンプ嬢に師事し、ピアノを学ぶ。
大正14年/1925年 帰国。自由学園英文科に入学。
昭和4年/1929年 卒業。
昭和15年/1940年9月 処女作「愛國の音樂者 パデレフスキー自傳」出版、第一書房
昭和16年/1941年10月 「眞実なる女性 クララ・シュウマン」出版、第一書房
昭和17年/1942年3月 「大ピアニストは語る」出版、レコード音楽社
昭和17年/1942年9月 「天才ショパンの心」出版、第一書房
昭和19年/1944年2月 「フランツ・リストの生涯」出版、第一書房
- 入院
昭和21年/1946年5月20日 クララ・シューマンの逝去から50年目の同じ日に平塚の南湖病院にて逝去。36歳。
昭和22年/1947年11月 随筆集「美の愉しさ」出版、北斗書院 (遺稿)
昭和25年/1950年4月 「クララ・シューマン、ヨハネス・ブラームス、友情の書簡」が令妹・原田汀子さんの編纂により出版、ダヴィッド社

 

原田光子さんほどに、クララ・シューマンとつながりの深い日本人はいないと思われます。それは殆どが初版で消えて行くクラシック音楽関係の書籍の中にあって、60年以上も現役で発売され続け、愛読され続けている名著「真実なる女性、クララ・シューマン」を執筆されたと言うだけではなく、運命的とも言えるほどに不思議なクララとの一致があるからです。
「Clara」とは「光り」という意味です。それを日本語に直して女性名にすればどうなるでしょう?そう「光子」です。更に「原田」という名字ですが、これをドイツ語にするとどうなるでしょう。色々な訳があり得ますが、「草原」という意味のドイツ語が最も自然ではないかと思います。それは「Wiese」。ところでクララ・シューマンの旧姓は?そう「Wieck」です。原田さんも結婚されていますが、その後離婚されましたので亡くなった時のお名前「原田」も「旧姓」と言えるのです。
更に驚愕するのは誕生日と亡くなられた日の数字の一致です。ドイツ語のお名前と、ふたりの誕生日と逝去された日を並べてみました。

Clara Wieck  1819.09.13 - 1896.05.20
Clara Wiese  1909.12.13 - 1946.05.20

これだけ多くの文字と数字を並べて、異なるのは名前と数字で各々2文字だけです。如何でしょう、この驚くべき一致。

ところが、ローベルトが好きだった文字遊びを数字遊びに置き換えてこの文字と数字の組み合わせを眺めていたら、もっと驚くべきことを見つけました。A=1, B=2, C=3というように、アルファベットを数字に置き換えて、二人の名前と数字で一致しなかった物を四つ集めて合計すると...

Clara Wieck側の一致しなかった文字と数字:c (3) + k (11) + 8 + 8 = 30
Clara Wiese側の一致しなかった文字と数字:s (19) + e (5) + 2 + 4 = 30

と、一致したのです。この二人の名前のスペルの番号、生年月日、そして逝去した日の数字の合計は共に147で「完全に一致」します。まさに運命...神様が隠された暗号?


妹の原田汀子さんのお話では、光子さんは当初ステージピアニストを志しましたが、その後、目標を変えられて音楽関係の執筆と評論で生計を立てるおつもりだったそうです。そして精力的な執筆活動を始められて、クララ・シューマン、フランツ・リスト、フレデリック・ショパンの伝記を初め7つの書籍を世に送り出しました(美の愉しさと友情の書簡は没後出版)。その光子さんの執筆活動はわずか5年程度の短いものでした。
もし光子さんが長寿を全うされたら、その後の人生において私たちに何を残してくれたのでしょう。汀子さんのお話では、光子さんは次にワーグナーの事を書きたくて、病床でワーグナーとコジマの研究をされていたそうです。それを果せぬままに36才で帰天されましたが、もし長寿を全うされたらワーグナーを初め、18〜19世紀の数多くの作曲家、演奏家などの伝記、随筆を残され、その時代の音楽家たちの私たちの理解をもっと豊かなものにしてくれたでしょう。早すぎるご逝去はとても残念ですが、しかしクララ・シューマンの伝記と、クララとブラームスの往復書簡集を残してくれたことが、日本人の忘却の彼方に消え去るであろう運命にあったクララを、とても豊かな、私たちの心に響く存在として残してくれました。この点において感謝にたえません。

原田光子さんの著書を一つでも読んだことのある方なら、その緻密な研究、考証に基づき、量的にも相当な一つ一つの著書がわずか1年程度の間隔で発行されたことが信じられないと思います。それを戦時中に成し遂げられたのですから、相当にパワフルな女性であっただろう事が想像できますが、上記の写真のお姿からもパワフルさが伺えます。当時の原田光子さんを直接知り、名著「真実なる女性、クララ・シューマン」の執筆の直接的な後押しとなった、リッツマンによる伝記「クララ・シューマン、芸術家の生涯」を光子さんに寄贈された野村光一さんの文章を、是非とも光子さんの写真に添えたいと思い、謹んで引用させていただきます。

「初対面の彼女は、すべて輪郭のはっきりとした印象を起こさせる人だった。背も高く、身体もがっちりしていたし、顔の造作なども、目鼻立ちが大作りで、きりりとしていた。三十をいくつか越えた年輩だったのであろう。魅惑的なところはもう乏しくなってはいたが、美人だった。眼鏡を掛けていて、当時一部のインテリ婦人層に流行っていた琉球染のくっきり模様が浮き出ている和服を着ていた。それが彼女によく似合って、いかにもなにか物をしそうな婦人のように見受けた。」
(野村光一氏・記。原田光子著・大ピアニストは語る、1969年改訂版初版の解説より引用)

人間は命を授かる日も、永遠の命に帰る日も自分では選べません。しかし原田光子さんは、戦時中の病床で重い病と戦われた上で、クララの逝去から丁度50年目の同じ日に天に召されました。個人的な意見を許して頂ければ光子さんはクララに呼ばれたのではないかと思っています。それが光子さんの運命であったと。そして今ごろは天国で、クララと一緒にピアノを楽しみ、ローベルトと一緒に音楽関係の執筆で仲よく競いあっているのではないかと思うのです。

光子さんも運命を感じておられたのかも知れません。存命中の最後の書籍となった「フランツ・リストの生涯」の初版の検印には、「眞実なる女性 クララ・シュウマン」の初版に用いられた(光子)ではなく、「Clara」を表す(光)という大きな印鑑が用いられいます。彼女は最後にご自身が「Clara」であることを印して、永遠の命に旅立たれました。

左:「眞実なる女性 クララ・シュウマン」初版第一刷・昭和16年 に押された検印
右:「フランツ・リストの生涯」初版第一刷・昭和19年 に押された検印     



原田光子さんの著書(私の所有分のみ)
愛國の音樂者 パデレフスキー自傳 第一書房 1940年初版本

原田さんの処女作です。1938年にパデレフスキー自身が出版した自伝を、僅かその2年後に翻訳出版しています。音楽家である前に愛国家であり、ドイツと緊張関係にあった中でポーランド大統領の就任を要請されるほど、祖国民から信望を集めたパデレフスキーの半生を描いています。その文章は現代にあっても読みやすく、原田さんの卓越した文章力が既にこの書でも発揮されています。
この書籍(古書)の流通量は極めて少なくて、入手に時間がかかりました。

眞実なる女性 クララ・シュウマン 第一書房 1941年初版本

クララの伝記として古今東西を問わず第一級の書籍であり、また日本語の伝記として唯一翻訳によらず原田さんの自然な日本語で記述されている本です。この本の初版は一冊物ですが、第二版では一旦二分冊になり、その後また一冊物に戻って数回の改訂を受けています。戦後まもなくダヴィッド社に出版が引き継がれ、また角川文庫から二分冊の本としても発売されたことがあります。従って古本では様々な版が存在しています。内容の素晴らしさは申すまでもないでしょう。この本が原田光子さんの名を一躍広めることになりました。

詳しくはクララ関連書籍のページをご覧下さい。また初版第二刷の全文をPDFファイルでダウンロード出来ます。こちらからどうぞ。

また国立国会図書館のサイトでも閲覧出来るようになりました(→こちら)。
1942年初版
1969年
大ピアニストは語る レコード音楽社 1942年初版(第二刷)本 / 東京創元社 1969年

当初は雑誌「レコード音楽」に連載されたもので、それが一冊にまとめられて昭和17年3月にレコード音楽社から発売されました。(私の入手した本は同年6月に増刷された物なので、当時から人気のあった書籍だった事が伺い知れます)。その後、昭和28年には「創元文庫」から文庫本として再版され、さらに昭和44年に東京創元社から単行本として再々版されたものです。

ここにはブゾーニ、ゴドウスキー、ラフマニノフ、コルトー、シュナーベル、ルービンシュタイン、イヴ・ナット、ギーゼキング、バックハウス、カサドッシュなど20人の大ピアニストの演奏と学習に関する言葉が納められています。加えて、ベートーベン、ショパン、リストのピアノ演奏に関する記述もあります。ピアノを弾けない私が言っても信用度がありませんが、この本はピアノを学ぶ人にとっての金言が詰まっている貴重な本だと思います。



天才ショパンの心 第一書房 1942年初版本

クララの本の翌年に発刊された著書です。オビエンスキー編纂のショパンの書簡集から219編の手紙を抜きだし、ショパンの言葉を通じて、彼の短き一生と心の内を描き出した書籍です。この本は恐らく初版だけで廃刊になったと思われます。インターネットを長年検索していますが、初版以外の情報を見たことが有りません*1。また古書としても出回ることが無く、数年に渡る日課のような検索でやっと見つけることが出来ました。麗らかな海の様な水色の表紙がショパンらしくて印象的です。2段目の写真は、背表紙に書かれた文字の拡大です。

*1昭和24年に鎌倉文庫から発刊された文庫本があるそうです。

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フランツ・リストの生涯 第一書房 1944年初版本

原田さんが存命中の最後に発行された著書です。従ってこの本に押されている検印(上記)は、原田さんが押印した最後の3000個の一つになります。まだこの本を読んでいないのでその素晴らしさをお伝えすることが出来ませんが、1837年4月11日にウィーンでリストとクララが初めて会う場面を読みましたところ、原田さんならではの美しくも緻密な描写によって、その場の二人の様子がありありと浮かび上がりました。クララの本に書かれたクララの立場からのリスト像と、この本に書かれたリストの立場からのクララ像を二つ重ねると、あたかも立体画像を見るかのようです。
全部読みましたら、また内容をお伝えします(本がとても傷んでいるので、読まないかも知れません)。
この本の表紙には題名が記されていませんでしたので、背表紙にあった題名の拡大写真を併せて掲載します。この書籍は「愛の使徒 リストの生涯」と改名して昭和26年に協立書店から再刊されています。協立書店版はインターネットで時々見掛けます。

美の愉しさ 北斗書院 1947年初版本

原田光子さんが日頃から書き溜めていた随筆をまとめた書籍です。印紙の検印が下の「友情の書簡」と同じである事から、光子さんの没後に妹の原田汀子さんが編纂されたものと思われます。戦後の物資の不足する時代に発刊された為か、紙質は藁半紙に近い質素な物です。
内容は「花」8編、「果實」9編、「秋の大和古寺」8編、「詩」6編からなっています。光子さんの他の著書とは異なり底本がありませんので、光子さん自身の心の内を美しい日本語で語られています。その文章の品格と知性の高さは、読む側にも相当の知性を要求します。
こちらに最初の随筆「藤」を画像ファイルで掲載しました。御一読下さい。

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クララ・シューマン、ヨハネス・ブラームス 友情の書簡 往復書簡集
ダヴィッド社 1950年初版本 / みすず書房 2013年復刊本

原著はマリエ・シューマンの厚意で公開されたクララとブラームスの書簡を、Berthold Litzmannが編纂して1927年にBreitkopf und Haertel社から発刊した「Clara Schumann - Johannes Brahms, Breife aus den Jahren 1853-1896」です。原田光子さんがこれを生前に邦訳し、光子さんの没後、妹の原田汀子さんが編纂して1950年に発刊されました。原著のタイトル通り、ブラームスがシューマン夫妻を訪問した直後の1853年11月から、ふたりが最後に手紙を交換した、クララが亡くなる直前の1896年5月までの全 207通の手紙が掲載されています。
クララは手紙が後生に公開される事を踏まえて、かなりの手紙を破棄しているので、前半はブラームスからクララへの手紙が多く、クララからブラームスへの手紙は数える程しかありません。またローベルトの存命中はブラームスとローベルトの間の手紙も掲載されています。

永らく幻の書籍でしたが2013年1月にみすず書房から復刊されました(下段写真)。


2013年まで幻の存在だった「友情の書簡」
友情の書簡の存在を知ったのは確か2000年4月。それ以来”掛け値なしに”毎日複数の古書サイトをチェックし、また立ち寄った古書店も書架を欠かさずチェックしてきましたが、この友情の書簡は入手できませんでした。
私がこの本を熱烈に探している事は多くの方を動かして、在京の方で古書店をチェックしては結果を知らせてくれた方、ご自分の持っている本のコピーを少しづつ送ってくれた方など、沢山のご支援を頂きました。そして何より、この本の編纂者であり光子さんの妹さんである原田汀子さんにも、ご自宅の書架に余分が無いか探して頂けました。この本は現役時点で思ったほど売れなかった様で、原田さん宅にはかつて沢山残っていたのですが、痛みが進んで処分されたようで余分はありませんでした。しかしその後、きちんと製本された二分冊のコピーを頂きました。汀子さんご所有の本も痛みの進行が激しく、今後安心して読めるようにと、業者に頼まれて本をコピーし製本されたそうです。このコピー本(左上)はこの世に3セットしか無く、2セットは原田さんご家族がお持ちになり、残りの1セットを私が所有しています。
そして月日が流れて2006年、クララの誕生日も近い吉日に私もやっとオリジナルの友情の書簡を購入する事が出来ました(右上)。これで毎日朝昼晩深夜とネットチェックしてきた日課から開放され、この本が発刊された当時の空気を感じながら読み進める事が出来ます。
※永らく幻の存在でしたが、2013年1月にみすず書房から現代仮名遣いで復刊されました。
こちらは初版第四刷(1951年)のカバーです。読者の方から写真を頂きました。初版第一刷とは違って函が無くなり、代わりにクララとブラームスのサインをあしらったカバーが付いています。右は二人のサインの拡大です。筆跡を判読しやすいように画像処理で輪郭強調しています。

 
光子さんの湯呑み
2003年8月にケーキショップClaraを訪問した際に、原田汀子さんから、光子さんの貴重な遺品を拝見しました。生前に親交のあった人間国宝・陶芸家、富本憲吉さんが光子さん用にと作られた、梅紋様の湯呑みです。富本さんはこの湯呑みを作られた後で、様々な陶器に梅紋様を用いられたとの事です。
富本憲吉さんの命日は6月8日だそうです。光子さんの命日の5月20日といい、シューマン夫妻とは何か深い繋がりを感じますね。


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