フランクフルト・ミリウス街32番
(2008年9月取材)

クララは1878年9月にベルリンからフランクフルト・ミリウス街32番に転居しました。1878年9月17日付けでフランクフルトからブラームスに宛てた手紙には「(ミュンヘンに滞在していた時の話題の続きとして)マリエは用事が溜まっておりましたのでフランクフルトに行きましたが、13日(クララの誕生日)には私の許に戻ってくれました。」「数日前から当地(フランクフルト)に居りますが未だホテル住まいです。新しい家で寝られるようになるのは月末になりましょうか。」とありますので、59才の誕生日の後でフランクフルトに移動し、月末に今回ご紹介する住居に入居したようです。私が訪問したのは2008年9月21日なので、クララの転居からほぼ130年目の訪問になりました。
クララは同年3月にフランクフルト音楽院から教授職をオファーされていて、その職に着任するためのこの地への転居でした。その後の18年に渡る波乱万丈な最晩年をクララはここで暮らし、1896年5月20日午後4時21分にこの家で息を引取りました。

住所はMyliusstrasse 32, Frankfurt am Meinなので、ミリウス通り32番地と訳すのが正しいと思いますが、原田光子さんの「真実なる女性 クララ・シューマン」での表記に従って、このサイトではミリウス街32番と表示することとします。



ミリウス街はフランクフルト中心部のやや北西側にあります。地下鉄U6/U7に乗車して、Westend駅で降りれば、直ぐにミリウス街の南端に辿り着けます。クララの家は二ブロック目の右手(東側)に建っています。


Googleの航空写真です。この航空写真を拡大して印の右側に見える家がクララの家です。裏は綺麗な庭になっているのがこの写真から伺えます(拡大して見て下さい)。

では、ここからミリウス街を南から北に向かって散歩する形で、順番に写真を紹介して行きましょう。

フランクフルト地下鉄U6/U7のWestend駅西側出口です。ミリウス街入り口は駅の東西入口の丁度中間点にあります。この西側出口だとBockenheimer Landstrasseを東(この写真の方向)に向かって100mほど歩けば入り口に到着します。

ミリウス街の入り口にあるBockenheimer LandstrasseとMyliusstrasseの標識です。

交差点からミリウス街を見たところです。交差点付近が少し曲がっている以外は真っ直ぐな道です。ご覧の通りの一方通行路です。

通りには奥のビルの様な現代的なオフィスビルと、手前の家のような伝統的なデザインの建物が入り混じっています。

最初の交差点、Kleine WiesenauとのT字路です。このT字路を境に、一方通行が南行きから北行きに変わります。

T字路を過ぎるとクララの家が見えてきました。ちょっと分かりにくいですが、白とレンガ色の建物の隣りの建物がそれで、このアングルだと標識と木々の葉に隠れています。

32番の標識のある家に到着しました。現在は普通の住居で立ち入る事は出来ません。

住居全景です。白壁の家で130年以上前に建てられた家とは思えないほど綺麗です。

正面写真です。屋根には3つの大きな明かり採りがあります。左前の木に隠れて住居が余り見えませんね。Googleの航空写真を見ると、この木はピンクの花を咲かせるようです。

行き過ぎた場所からの情景ですが、木が邪魔で住居の様子はあまりわかりません。隣りの黄色い色の家は作りが同じですが、つながってはいないようです。玄関は別にあり、住居表示も異りました。

隣りの通りから裏側に回ってみた情景です。高い塀と木があり庭の様子は分りませんでしたが、Googleの航空写真にを見ると白い花の咲く美しい庭になっています。

左側の門柱にあるプレートです。クララの家であることを示しています。

その拡大写真。

門から中を覗き込んだ情景です。正目に玄関が見えます。また家の壁の32番の標識の下に二つのプレートが埋め込まれています。

そのプレートの上側がクララがここに住んだ事を証明する内容になっています。

クララ・シューマン
1819-1896
ピアニスト&作曲家
1878年から彼女が亡くなるまでこの家に住まう


その下のプレートには、Ernest & Gertrud Flersheim夫妻が、クララの没後の1897年から1937年まで住んだとあります。この人物は知りませんが、プレートになるぐらいなので有名人なのでしょう。
有名人が二組も住めば日本なら記念館か公共施設になりそうですが、未だに一般住居であるところがドイツらしいです。


クララの家を後にして、北に向かって歩き出すと、直ぐに見えるのはFriedrichstrasseとの交差点です。自宅の直ぐ北側の通りの名前が父(Friedrich Wieck)と一緒とは、単なる偶然か、クララがこの名前のある土地を意図的に選んだのか、神のみぞ知るですね。Friedlich Wieckはクララがこの家に転居する5年前の1873年10月に亡くなっています。

更に北を目指します。オフィスビルと一般住居が入り混じった通りです。

次はFeldbergstrasseとの交差点です。この角の建物の一階はカフェになっています。

そこからまた北を目指すと、ミリウス街の北端が遠くに見えます。

ここがミリウス街の終点、GrueneburgwegとのT字路です。

そこから、ミリウス街を南に向かって見渡した景色です。お疲れさまでした。

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